巴考 ―― 謡曲『巴』から『かぜはふり』へ

巴

登場人物のトリビアを交えながら『かぜはふり』の解説を続けてきました。今回は巴がどのように作品のキャラクターになったかを追います。

シナリオ化に悩む

『かぜはふり』の着想は、謡曲(能の台本)『巴』から得ています。2020年4月頃、本棚にあった能の解説本を読んでいる時に、たまたま何かが僕に刺さり、漫画化したい衝動に駆られました。

さっそくシナリオを書き上げたものの、その出来栄えに愕然としました。全然面白くない。

最初期のバージョンでは、山吹に人格があり、巴に嫉妬したり義仲との別れを嘆くことに主眼が置かれていました。言ってしまえば、チープで浅ましい感動ポルノです。

その後3回書き直すも、依然として面白くありません。背景が複雑化し、感情の起伏が強調されるものの、浅薄な歌舞伎のようで、根本的な芯が無い。それはちょうど、前回説明した「漫画のような漫画」で、表層的なドラマ性ばかりにフォーカスしていました。

こんなゴミに絵を付けたところで、粗大ゴミにしかなりません。こんなアイディアしか出せないなら死んじまえ!漫画やめろ!


自らをひとしきり打ちのめした後(慣れてる)、改めて原作『巴』の何が僕に刺さったのかを分析することにしました。そのために、さらに原作である『平家物語』を読み込みました。そしてようやく、物語の心髄を理解しました。

『平家物語』に、現代娯楽に無い何かを感じる

国語の授業でも習うことですが、『平家物語』には特有の無常観が流れています。物語では、様々な身分の人々が、没落や別離に遭遇し、悲しみに暮れる様子が描写されます。その描写の背景には、善人・悪人・すべての人を憐れみ、救いを祈るような目線が含まれています。娯楽漫画ならば、ドカーン・ブシュー・メソメソ・にゃんにゃんにフォーカスを当てて快楽刺激を狙いますが、『平家物語』はそうではなく、もっと広大な視点から傍観し、安穏や魂の救済を与えようとしているように感じました。

能『巴』でもその心髄は引き継がれています。ただし描写の重点は、巴が義仲と添い遂げられなかった無念に置かれています。僕はそこのドラマ性ばかりに関心を奪われていたため、裏側の大きな流れになかなか気づけませんでした。

この大きな流れというのが、前回説明した「フロー」です。これをより具体化するため、僕の貧しい娯楽経験の中に類似するものを探した結果、音楽や絵画などのライブ娯楽の要素と紐づけることができました。もともと『平家物語』は語り物(琵琶法師が語って聞かせるための物語)ですし、謡曲は舞台のものなので、文芸でありながらライブ感を多く含んでいたのでしょう。

以上の気づきをシナリオに反映させ、最終的に『かぜはふり』が完成しました。表層のドラマ性ではなく、大きなフローに重きを置いています。

十萌え

巴

メインのフォーカスをドラマ性以外に置いたものの、依然として強いドラマ的描写は残っています。今思えば、もっと抑制した方が良かったかもしれません。

特に巴は「十萌ともえ」の名の通り、萌え要素が多すぎて、どう描いてもフォーカスを奪われてしまいます。ツンデレて義仲を吹き飛ばすし、見た目と激しいギャップの怪力で敵の首をもぎ取るし。良き母・一途な妻・血の繋がらない妹・忠臣、すべての立場に立たされてジレンマに陥るので、否応なく悲劇的になるし。

けっきょく巴に着想を得ながらも、巴が一番多くの創作上の困難をもたらしました。しかし大きな学びを与えてくれたのも事実なので、結果オーライとします。

次は地味な人々を描く

次回作の主人公は、ガクッと地味な人々になります。表面的な起伏はより小さくなり、フローへのフォーカスがより強まる見込みです。地味の極みのような漫画になる可能性も高いですが、とにかく試みてみます。結果はいつも予測できません。今はただ、風のまにまに。